火曜日の思索メモ

思ったこと、考えたことの記録です。

人に「助けて」と言えない社会

若者達が居場所がない、安心して「助けて」と言える場所がないことについて松本先生が

「それでも昔に比べると時代は進んでいて、どうしたら助けられるかということについて議論されやすくなりましたよ。」

「以前は行政で自殺予防セミナーを行うと『自殺』や『死にたい』という言葉を入れないでくれ、と言われましたから。そういう言葉が入っていると人が集まらないと。今ではそういうことはなくなりました。」

「『自殺』や『死にたい』という言葉を禁じることに意味はないのです。『死にたい』という言葉を禁じても『死にたいくらい辛い』『死にたいくらい苦しい』という気持ちはなくならない。

私達が目指すのは『死にたい』という言葉を禁じるのではなく、安心して『死にたい』と言える社会。『死にたい』と言った人に『そんなことを言わないで』と禁じるのではなく、『何がつらいの?』と言える社会です」

 

「死にたい」と言う人が死を望んでいるわけではないのですよね。「死にたいくらい、この苦しさから逃れる道がない」「死にたいくらい、生きる為の方法がない」

生と死の狭間で揺れ動いているから、「死にたい」という言葉が出たのだから、ある意味呼び戻す為のチャンスでもあるのですよね。死にたいと口に出してくれればね。

 

実際は複数の問題を抱え、死にたいという気持ちを抱えながら「助けて」と言えない人の方が多いだろうなあ。

これは私達の社会のスティグマじゃないか、社会意識が変わらない限り、この傾向は変わらないのではないか、という指摘は的を射ているのでしょうね。

 

私達は「人に迷惑をかけてはいけない」という教えを受けて生きている。それが相談するのは悪いこと、弱いことという意識に繋がるのではないか。

 

特に男性は弱音を吐くのは悪いこと、助けを求めるのは弱いことという内なる規範に支配されて助けを求めることが出来ないのでは、という指摘は中高年男性の自殺率の高さを考えると外れてはいないのだろうなあ。

 

ヤマザキマリさんが

「イタリア人というのは我慢をしない人達だ。嬉しければ笑うし、苦しければ『私はこんなに苦しいんだ』ということを見る人に絶対伝わるくらいアピールする。

東日本震災の後、イタリアに帰国した時タクシーの運転手は私が日本人だと分かると

『あのニュースを私はTVで見ました。日本人が可哀想で、泣けて、泣けて』

 そう言った後

『あなた達の我慢強さは素晴らしいと思う。でも苦しい時には我慢しなくていいんだよ。苦しいと泣きわめいたっていいんだ。悲しいと叫んだっていいんだよ。辛い時には我慢しなくていいんだ』

 その言葉に母国の惨状にショックを受けていた私が思わず落涙すると、うんうんというように運転手はうなづいた。

イタリア人は我慢をしない人達だ。だが、彼らの我慢のしななさが心を癒す時もある」

 と、エッセイで書いていましたね。

 

弱音を吐くのは悪いことではない。助けを求めるのは悪いことではない。そういう認識がある社会の方が健全でしょうね。