火曜日の思索メモ

思ったこと、考えたことの記録です。

渋谷区児童養護施設殺傷事件で思ったこと

石井光太さんの「浮浪児ー1945」に、戦災孤児を助けたことから養護施設の園長になった人の話がありまして。

世の中に戦災孤児が溢れている頃だったから国の方針も「とにかく数を対処しろ」で、よほどのことがない限り、質は問わなかったので(さすがに設置基準はクリアしているかチェックしていたでしょうが)、戦災孤児の間では
「どの施設が一番待遇がいいか?」
という情報が飛び交っていたそうなのですね。このあたり、入園前に保育園情報を求める親御さん達に似てますね。国の姿勢は変わっていない、ということなのかな?

今の親御さん達と違うのは、戦災孤児達はここは嫌だと思うとさっさと脱走したので収容と脱走を繰り返す子が珍しくなかったので、実際に身をもって味わった体験談として情報が出回っていたということですね。

で、ここの園長さん。いいとこの奥様だから、何もしなければ苦労知らずでいられたのに、戦災孤児の保護をはじめてから戦後の食糧難の時代に子供達を守るため、もの凄く苦労されたそうですが(いつの時代も良心的な施設は金銭面で苦労しますね)
「うちの園の子供達には絶対にひけめを感じさせない!」
と、ふだんは切り詰めたつましい食事でも、遠足や運動会の時は、普通の家庭の子供が羨ましがるようなお弁当を持たせてあげたそうです。

そういう園長さんだったので、農家が野菜を差し入れてくれたり、ご近所の人達が子供達の養育に協力してくれたそうで、スタートは私設養護院でしたが、やがて国の認可もおりて、運営も軌道にのっていったそうですが、運営が上手くいっていくと当然子供の数も増えていくわけです。法で決められた定員を超えた数で。

定員を超えればどうなるかというと、当然国からお達しがでるわけです。
「別の施設を用意しましたから、増え過ぎた分の子供達をそちらの施設に移してください」

戦災孤児達は親を亡くし、誰も守ってくれない世界に放り出された後は辛酸を舐め続けていたので、大人を信用してはいません。簡単に信用するとひどい目にあうと経験で学んでしまっているのです。


そういう大人を信用しない子供に
「この大人だったら信用してもいいかな?」
 と思わせてママと慕われた人だったので、新しい施設がどんなに立派な建物でも園の子供達はママから離れたくないのです。

園の職員が
「別の施設に移らなければいけないことを、私から移る子供に言いましょう」
 と言ったそうですが、園長さんは
「別の施設に移れと言うことで、言われた子は私に捨てられたと思うでしょう。だから、私がその子に言わなければいけません」
現場の人間がどう思っていようとも、円滑な養育ができるようにと定められたのが法ですから、現場の人間は法には従わなければいけません。
たとえ法に従うことで
「また自分は捨てられた」
と思う子供がいたとしてもです。野田市の虐待事件の後、厚労省審議会で20歳まで、児童とする法案を実践家、法律家、研究者のメンバーは強く推進していたのに見送られてしまったことについて、児童相談所の「一時保護」に15年ほど関わってきた保育士が懸念していましたね。


2018年6月13日に成年年齢が20歳から18歳に引き下げることが決定された時、消費者問題に関わる人達は安易な引き下げに反対していましたね。


18歳、19歳の若年層が不当な契約から逃れることができる未成年者取消権が喪失することへの懸念。若者の消費者被害の増大を予想しての懸念からの反対ですが、この場合引き下げに反対してきた人達は保護者の有無には注目していないでしょう。それでも反対しているのですよね。


養護施設施設出身者に日本という国は優しい国ではないですね。