火曜日の思索メモ

思ったこと、考えたことの記録です。

良心の実弾

FBで放映があることをシェアしてくださる方がいなかったら見逃すところでした。朝4時30分なんてTV見ないもの。

この内容だったら他の時間帯で流したら、もっと見る人が多かったでしょうに。

どんないい内容でも地方局が作成したドキュメンタリーだと首都圏ではこの時間帯しか放映枠がなかったのかな?もったいない。

 

昨年12月に亡くなられたペシャワール会の中村先生の軌跡を記したドキュメンタリー「良心の実弾」を見ました。良心の実弾というのは中村先生が書き残した文章の中で出てきた言葉ですね。

プロデューサーの臼井さんが92年にペシャワールからアフガニスタンのダラエヌールまで記者として同行された方だそうで。いや本当に貴重映像てんこ盛り。

 

藤田看護師が映っている映像初めて見ました。近年放映された映像だと水路建設と緑化に関する映像が主だし、現地の状況が伊藤さんが亡くなって、中村先生が日本人ワーカーを全て帰国させた時以前に、「女子供は行ける状況じゃない」に変わっていたからワーカーとして働く姿を映すことがなかったのでしょうね。

中村先生、アフガニスタンの女性の地位の向上について質問を受けると

「お国にはお国のやり方があります。それは異邦人の私達が口を出すことでない。ただアフガニスタンでは水汲みは女の仕事です。私達が水路を引くことで水が来る。彼女達の仕事が楽になることで、彼女達はその時間を自分達の為に使えるようになるかもしれない」

 と、おっしゃっていましたが、診療所時代

「女性ワーカーが増えてくれるのは有難い。現地では男では出来ないこともあるし、彼女達の働き方を見たことが現地の人達に何らかの影響を与えるかもしれない。実際アフガニスタンの女性達の中に看護師になろうとするものがでできた」

 と語られていましたね。

ハンセン病診療所時代の映像も映っていましたけれど、藤田看護師これは先生に信頼されるよなあ、といった働きぶりで藤田看護師の方も

「困っている人がいたら絶対に見捨てない。絶対にそうなさらない」

 と中村先生を語っていて、こういう互いを信頼しあえる仕事関係というのはいいですよね。

 

 「ダンプを運転したりとか、あの運動音痴が」

 と中村先生の中学時代からの同級生が「ペシャワール会の中村先生」ではなく「同級生の哲ちゃん」について語っていて。

「中学の時は地味やったよ。ただ剽軽なところもある人で。帽子にFeと書いてあるから『それはなんね?』と聞いたら鉄の元素記号やって」

鉄=てつ=哲ですね。(^_^;) お友達は同窓会の時の写真も見せてくれて

「ほら、笑ってるやろう。ほんとこの人同窓会好きやんね」

 と笑った後、中村先生がアフガニスタンに渡るきっかけとなったであろう話について語ってくれました。ヒマラヤに登山に行った時、登山隊の中に医者がいると知ると診てもらう為に続々と住人達がキャンプ地にやって来る。

 キャンプ地を離れる時に診てもらえなかった人達の恨めしそうな顔が忘れられないと。

 

医者として登山隊に参加した時に診てもらう為に遠くからやって来る人達の姿に、医療の加護を受けられない人がこんなにいるの

か、と思ったという話は知っていたけれど、アフガニスタンだけでなくヒマラヤでもそういう思いをしたとは知りませんでした。

 

アフガニスタン旱魃で水が手に入らなくなり、耐えきれず汚れた水を飲んで病にかかる子供が続出状況を打破する為、2002年に用水路建設を決めた時の

「用水路事業に我々の未来がかかっている」

 と先生が語る映像が流れていたけれど、その後に事務局の方が

「事務局側が水路建設に一致団結して賛成していたわけではなかったです。不安の方が大きかった」

 と語っていたけれど、それはそうでしょう。いくら水が必要だからと言って、井戸を掘るのと水路を引くのとでは規模が違うもの。

いくら空爆下の食糧配布を支えた事務局だって出来るかどうか不安になるよね。

 

 土木の素人である医者が何故知識もないので水路を建設しようとしたのか?という問いに対して藤田看護師が

「命を救おうが一番大事。その為に水がいる」

 とシンプルな行動原理を語っていましたが、シンプルなことって一番難しいことでもあるんですよね。独学で知識を身につけて水路を作る、なんて建築会社の人が聞いたら、絶対無理って言いそうだし。

 

でも、それをやる。必要だから2011年まで中村先生のもとで現地ワーカーとして働き続けた杉山さんが(ということは伊藤さんの死で日本人ワーカーが全員帰されるまで、この方アフガニスタンにいたのね)中村先生について語った言葉。

「現場で言うと鬼教官、鬼将軍。聞く質問はHOW 」

 どうやったら出来るか?どういう方法があるか?水泳を覚えるのに教科書を読んでも仕方がない。まず飛び込んで泳がないという徹底した現場主義。

 そういえば中村先生、ペシャワール会の方針について

「無理、無駄、むらの三無主義。無理だと思ってもやってみる。無駄だと思ってもやってみる。むらがあっても気にしない」

 と語っていたなあ。その三無主義で「責任は俺が取る。やりたいようにやれ」を若い人達にやらせて水路を完成させたのですよね。

 通水した時の言葉として水路に対して

「100年はもってもらわないといかん。将来、日本の技師が来た時水路を見て笑われるようじゃいかん。道具がない中でやれることをやる」

 と語った言葉が紹介されていてこうして出来たマルワリード水道が65万人の生活を支えているのですよね。

 

 中村先生との対談本を出した澤地久枝さんが会った時のことを

「プロの物書きという意識を捨てて何でも伺った。強い言葉はないんです。語られるような事実の重さが強くて、そういう重いことを淡々と話すんです。話されている時ニコリと笑われることがあって、それは後継者はいないと話された時だったんです。」

 後継者はいない、ということは、それをする必要がない状況になっているということでもあるのですよね。

「後継者はどうされるおつもりですか、と聞いたら、自分がいなくなった後を継ぐ後継者はいないと。人の名前は忘れられる。しかし成したこと、そのものは残ると。自分の後継者として残るのは、この水路だと」

 

  ワーカーの杉山さんが

「正直、日本人がやった方が早いこともあるんですよ。でも先生はアフガニスタン人にやらせた。アフガニスタンに残るのは彼らだろうと。彼らが続けられるようにしておかないと、と。そういう意味では厳しい人でした」

 と語る通り、誰の為に、何の為に、それが必要なのか?ということを忘れなかったのでしょうね。

 水路を造ったのはアフガニスタンに住む人達の命を救う為のもの。なら、いつまでもその水路が人々の命を救い続けられるように、日本人がいなくてもアフガニスタン人だけで、その水路を維持できる体制を作っておかないといけない。

 

 澤地さんが中村先生のことを

「スローガンのない人、スローガンを言っているならば10㎝大地を掘ろうという人」

 と語っていて、確かに中村先生は言葉ではなく行動の人だよなあ、と。

 

 今回、初めて中村先生のお嬢さんが取材に応じてくれたそうで。

「どちらかというと父に似ていると言われます」

 と言う言葉のとおり中村先生に似てますね。お嬢さんが中村先生から言われた言葉として

「見栄をはるなら自分の中に見栄をはりなさい」

 そう言われたと語っていまして。

「負け組だとか、いい大学を出たから、とか、そういうのは外に対する見栄だから良くない」

 そうおっしゃっていたそうで。お嬢さんは 中村先生の生前はペシャワール会の活動にあまり関わっていなかったそうなのですが、中村先生が亡くなられてから、父のことを知りたいとペシャワール会の活動に参加されるようになったとか。

 中村先生、アフガニスタンにいることが多かったですからね。家族なら自分の知らない時間のことを知りたいと思うのは当然でしょう。ああいう亡くなり方をされたのなら余計に。

 「父のしたことを知って、これだけのことをしてきたんだ、どうしよう」

 とお嬢さんが語ったのに、ちょっと笑いました。中村先生、家庭では剽軽で面白い普通のお父さんだった、と会報で語られていたから自分の知らない父の姿に戸惑うのも当然でしょうね。

 

 それにしても今回の放送、貴重映像のオンパレードで1985年当時の取材映像も出てました。医師としてパキスタンに渡った翌年の映像ですね。さすがに中村先生、若い。若いけれど、これからの豊富として語っている言葉がやっぱり中村先生らしいですね。

医師として喜ばれるところで働きたいと。自分がいることでアフガニスタンに何かを残したい、と。

 

 何故、中村先生は人の心を動かすのか?という質問に対して藤田看護師が

「一貫して変わらなかったから」

 と答えていまして。アフガニスタンはああいう状況だから患者が途切れなくて。全ての人が救えるわけでもなくて。だから達成感について藤田看護師が訊ねた時、中村先生は

「それはないけれど、自分がここにいる時に治った患者さんが退院していった。それでいいんじゃないかな」

 そう答えられたと藤田看護師が語った後、中村先生が綴った言葉が流れました。

「本来の素朴な正義や思いやりを理屈の中で変質させてはいけない。良心の実弾を打ち込め」

 

 水路事業は中村哲だから出来た、とは多くの人が語っていることで、その中村先生がいなくなった今残された人々が担うものは思いでしょうけれど、ペシャワール会の方が

「どうしようと思った時、中村先生が遺したものが対話として残っている」

 遺されたものを通して中村先生と語りあっていることを話されていまして。「アフガン 緑の大地計画」の改訂版って改訂前のものに比べると技術書の面が強いのですよね。

 この用水路技術の解説したものは映像でも作成されたそうで、先生は亡くなる13日前にその映像を初めて見られたそうで。

「もうニッコニコでした。通水の時と同じようでしたけど、もっとニコニコしていた。もっと嬉しそうでした。安心なさったんですかね。やっと出来たって」

 ペシャワール会の方はそう語られていたけれど、その映像を見るとせつない。これからもこういう風に作る筈だったんだな。学校を作って、技術者達を養成してアフガニスタン全土に緑化を進めていく、と語られていましたものね。

 

先日の古事記の講座の時、宗匠

「仕事は経済を回す為にやるものじゃない。社会で、その人がやめてしまったら止まってしまうのが仕事。社会を動かす為に仕事をしないといけない。矢も盾もいられず動くことが仕事」

 と語られたのですが、中村先生の軌跡を見るとその言葉が正しかったことが分かりますね。