福岡までは、さすがに行けなかったけれど東京でも開かれることになったので、練馬まで中村先生をしのぶ会に行ってきました。
早めに行ったから大丈夫だったけど、やっぱり会場に入りきれない人がでたみたいですね。
土木技術者女性の会とかJICAの職員の方とか、中村先生ゆかりの方がそれぞれ思い出を語られて、聞きながら
中村先生って人に、己への誇りを持つことを与え続けた方だったんだな、と思いました。
それぞれの話がとても深かったのだけど、加藤登紀子さんが唄った歌が今回の会を象徴していたような気がします。
「哲さんがずっと闘っていたものは旱魃だけじゃなくて、『ここには何の文明もないじゃないか』と外からやって来る傍若無人な力とも闘っていた気がします」
「この歌は谷川 俊太郎さんが作詞して、武満 徹さんが作曲してあまりに大事な歌すぎて、私はあまり唄わなかったのだけど
この歌を哲さんに捧げたいと思います。」
そう言った後に加藤登紀子さんが唄ったのは「死んだ男の残したものは」でした。
死んだ男の残したものは
ひとりの妻とひとりの子ども
他には何も残さなかった
墓石ひとつ残さなかった
死んだ女の残したものは
しおれた花とひとりの子ども
他には何も残さなかった
着もの一枚残さなかった
死んだ子どもの残したものは
ねじれた脚と乾いた涙
他には何も残さなかった
思い出ひとつ残さなかった
死んだ兵士の残したものは
こわれた銃とゆがんだ地球
他には何も残せなかった
平和ひとつ残せなかった
死んだかれらの残したものは
生きてる私生きてるあなた
他には誰も残っていない
他には誰も残っていない
死んだ歴史の残したものは
輝く今日とまた来る明日
他には何も残っていない
他には何も残っていない
今から3年前、中村先生70歳の時にPMS20年継続計画を指示されて、計画、立案、工事の部分までペシャワール会が担っている今の体制から、工事の部分を事業化させて寄附に頼らない体制を作ることで自立させる予定だったそうです。
20年経ったら(今から数えると17年後ですね)、日本側が役割を終えてアフガニスタン側が自立し、日本からの支援が無くてもアフガニスタン側だけでやっていけるように計画をしていた、とか。
70歳の時の計画で、20年計画だから無事計画が完了していたら計画完了時には中村先生は90歳。おそらく途中で自分がいなくなっても困らないように、そういう計画を立てられたのでしょうが、まさかこんなに早くいなくなるとは思わなかったと思わなかった、と新会長の村上さんが語っておられました。
中村先生は亡くなったけれど、中村先生が残した膨大な文章とインタビュー映像は残っている。残された人々は、、これからも「チーム中村」として中村先生の考えを元に活動を引き継ぐことを決定したそうです。
途切れることなく事業を継続できるように基金を作ることも計画しているとか。これも中村先生からの指示で、募金はどうしても波がありますから、何があっても計画を続けられるよう、アフガニスタンに緑の大地が復活出来るようにする為だそうです。
中村先生をしのぶ会の最後の登壇者は中村先生と共著を出したことのある作家の澤地久枝さんだったのですが、「人は愛するに足り、真心は信ずるに足る」という書籍を岩波書店から出された時、ゲラ校正の時点で30ページほど中村先生はご自身についての部分を削られたそうです。
「個人的なことを語るのを好まない方でしたが、あの本にはそれでも残された言葉があるのです。ご自身の結婚について聞かれた時に『恋愛結婚と言ってもそれは否定できない』とそう語っているのですね。
先生が亡くなった後報道された家族のお姿だけを見た人は、けなげな遺族とだけ思うかもしれないけれど、奥様はそういう人ではないんです。私、先生に言ったことがあるんです。
『先生は立派だけど、先生の奥様はもっと肝っ玉の大きい立派な人よ』
すると先生は
『家内は私なんかより遥かに肝っ玉の大きい人です』
そう応えられました。
伊藤青年が亡くなった後、先生は他の人達を日本に帰し、ただ一人の日本人としてアフガニスタンで過ごしました。先生がそういうことが出来たのも先生を支える家族の存在があったからだと思うんです。
新婚旅行とは先生は書かれなかったけど、結婚された後奥様と一緒にアフガニスタンの山間部を訪れた。そこで医学の恩恵が届かない人の姿を見られた。
『医者の手の届かないところに行く』ことを先生が考えられた時、おそらく奥様も同じことを考えられたと思うのです。アフガニスタンに先生が初めて渡られた時、お子さんはまだ0歳と2歳だったんです。
0歳と2歳の赤ちゃんがいる中で奥様は先生がアフガニスタンに行くことに反対しなかった。ただ広いだけのアフガニスタンの家にお子さん達と一緒に先生について行ったんです。
これは医学の恩恵が届かない人のところに行こうという先生の想いと同じものを奥様も抱えていたからだと思うのです。」
先生の死を告げる号外となったペシャワール会の会報に先生のお嬢さんが寄稿されておりました。
「このような事件が起こってしまったのは残念ですが、あり得ることだとずっと思っておりました。もしかしたら、これが最後になるかもしれないと思いながら毎回父を見送ったものです。自分に言い聞かせていたことですが、現実になるとやはり悲しいです」
「父は現地での危険な話はあまりしませんでした。辛いことや不安や恐怖もあったと思います。それを家族にもあまり話さなかったのは父の思いやりだったと思います。私は父と離れて暮らしていても、寂しいとか、ほったらかしにされていると感じたことは一度もありませんでした。それは家族を大切に思う父の気持ちを感じていたからだと思います」
「家ではおおらかで素朴な普通の父親でした。山登りや草木など自然が好きで、時間の許す限り庭仕事をしておりました。
子供や孫が大勢でワイワイしているのが楽しいようで、家族が集合した時でも中心になろうとはせず、皆の楽しそうな様子を端っこで静かに微笑んでいるような人でした」
「お茶目な面も多々ありました。電気屋さんで店員の方に外国人と間違えられ英語で話しかけられ、調子にのった父は英語で対応したそうですが、いざ会計となったときに
『外国の方がお買いものされるときには、本人と日本人の知り合いの方の名前が必要です』
と言われたそうです。どうしようかと思った父は、自分の名前の欄に『モハメド アリ』、日本人の名前の欄に福元さんのお名前を書いたとか。それを家族に話し
『お父さん、なんしよっとね』
と妹に言われ悪戯っぽく笑ったり」
「中村先生は人間的な側面を語るエピソードに事欠かない人だった」としのぶ会でも語られていました。きっとご家族には自分達だけしか知らない大切な思い出が多くあるのでしょうね。