火曜日の思索メモ

思ったこと、考えたことの記録です。

人は誰に会うのかが大事

中村先生襲撃の記事で気になることがあって、高山文彦さんの「ふたり 皇后美智子と石牟礼道子」をあさってみたのだけれど、やっぱりペシャワール会の理事の福元さんて渡辺京二

「小賢しいことを言うな。これは浪花節だ」

 と、叱責された人ですね。

渡辺京二石牟礼道子に請われて水俣病患者支援団に加わったという話も驚きだったけど(どうでもいいことだけど渡辺京二というと「逝きし世の面影」ばかりを取り上げられるのは何故なのかしら?他も傑作揃いだから皆さん読んでね!渡辺京二は「日本スゲー」の人に受けるものばかり書いている人じゃないですからね!)、「義理と人情」「義によって助太刀をいたす」を掲げて水俣病患者を支援した渡辺京二に、そんなことできるわけない、と口にして叱責された学生が同じように「義理と人情」でアフガニスタン人をし続けた中村先生をサポートし続けたという事実に人生の若い頃に誰に出会ったのかって大きな違いが出るのだな、としみじみ。

 

渡辺京二って近世の人なので、近代の思想である左翼思想にはまったく興味がないのですよね。人間は不平等なものであると思っているし、それを正さなければいけないとも思っていない。

 

だから左翼的な思想で「水俣病患者を救わなければ!」と言われてもまったく興味がなかったのだろうけど、近世の人なので近世の論理には凄く忠実なのですよね。

「共同体の同胞が苦難にあった時は義によって助太刀せねばならぬ」

 困っている人に助けを求められたら、その助けに応じなければいけない。それが近世の倫理で、渡辺京二は近世の人なので、その倫理に忠実でなければならない。

 

渡辺京二は頭がいい人なので自分のしていることがどういうことであるか分かっている。

「これは浪花節だ」これは浪花節だよ、浪花節でしかないんだよ。

 

漁民が国と国策企業を相手にして勝てる筈がない。でも、やる。そこに困っている人がいるからだ。だから「これは浪花節だ」なんですよね。勝てる自信なんてない。おそらく勝てないかもしれないと分かってる。でも、やる。

闘うことを諦めても、「困っている人」はそこにいて、ずっと苦しみ続けているからだ。それについて、どう思うのか?というのは個人の倫理でしかないのですよね。

仕方ないことだと容認するか。それは嫌だと、困っている人を助ける為に闘うか。

 

世の中には綺羅星のような人がいて、石牟礼道子渡辺京二も中村先生もおそらく後世に名を残すような人だけど、たとえ自身は名を残さなくても綺羅星のような人々の考えに賛同し、その活動を支援することで素晴らしことをする名もなき人々というのもいるんじゃないですかねえ。

 

「いいことをした報酬は、自分がその素晴らしいことをやり遂げたということだけだ」

この言葉の意味が歳を重ねるにつれ分かるようになりました。