火曜日の思索メモ

思ったこと、考えたことの記録です。

誰を最初の師とするのか。

こういう時ですが今年はなかなか機会がなかったし、やっぱりお話お聞きしたいし、と馬淵さんのセミナーに行ってきまして(薫さん、こういう時の主催ありがとうございます!)

年の最後に本物のプロのお話を聞けるっていいなあ。さすが専門家!一流のプロフェッショナルの言葉って納得力があって面白い!と思いながらお話を聞いていたのですが、先日聞いた藤田看護師の話とあわせて、お師匠さんがお坊さんとコラボした時の講座を思い出したりして。

講座が終わって、みんなでご飯を食べている時にお師匠さんが

「誰を最初に師として持つか、ということはとても大事ですよね」

 と話して。お坊さんが頷きながら

「そうです。誰に最初に出会うのかというのはとても大事です。そこが狂ってしまうと、後からとても苦労する。だから虐待を受けて育った人などはリカバリが本当に大変だと思います。自分が得てきた間違った情報を一旦ゼロにして、さらにそこから始めないといけないのですから」

 と応えた時がありまして。まあ、確かに虐待体験者の記したものを読むとその大変さは分かるのですが(大変さを語りながらも「諦めるな!信じられる人はいる。虐待を受けた人間でも幸せになれる。自分が証明する」と今、同じ経験をしている人に語っている人も多いですね)最初に誰と出会うかって、かなり運と縁に左右されるよね、と思ったりもして。うちの師匠が

「こういうことの怖いところは、最初に本物に出会った人は偽物が分かる。『なにか分からないけど、違う』という違和感で分かる。でも最初に偽物に出会った人は、次に本物に会っても分からないのよ」

 と語ったことがありまして。これ確か講座中の言葉だったから身体技法についての言葉だったと思うけれど、こういうことは身体技法に限らずあるのでしょうね。

 私教えがいのない教え子ですが、先生運だけはあるんですよね。経済でも身体技法でも文化でも「ああ、凄い。そういうことなのか。難しいけど本物の専門家が話すことって深くて面白いなあ」と思うことが多々ありまして。お坊さんの

「わからないなら、わからないまま無理にわかろうとしなくていいんです。無理にわかろうとすると歪みが出る。『わからない』をずっと抱えていると、ある時ふっと『ああ、そういうことか』と分かる時があります」

 という言葉を頼りに精進を重ねるしかないのでしょうね。ただ、この『わからないをずっと抱える」ことが嫌な人や苦手な人が増えているような気がしますね。

 そりゃ、わからないよりわかる方がいいんですが、与えられたヒントを元に自分で答えを見つけるのではなくて最初から答えを求めるような。教えてくれる人に考え方を求めるのではなくて解答を求めるような人が目立つような気もしますね。

 まあ、これは多かれ少なかれ誰にでもある傾向かもしれませんし、私がそう思うだけかもしれませんが。ただ自分のこの傾向をヤバいなあ、じゃなく、どこが悪いの?になったら危うい気がするんですよね。容易く負のオオトノジの方に捕まってしまいそうな。

 そうならない為にはより多くの本物に出会うしかないのかしら?あれ、何か違うなあ?という違和感は大きいですよね。