火曜日の思索メモ

思ったこと、考えたことの記録です。

本質から考える

年の終わりに中村先生の映像やご本人をよく知る人達から逸話を聞く機会があったせいもあるけれど、今年は本質というものとよく向き合わざるをえない年だったなあ、という気がしますね。

あらわれている事象に目を奪われているのではなく、本質を見ているとあまり揺らがないのだなと思ったり。その逆も思ったり。

中村先生の思い出を語るワーカーさんの

「本質を見るのではなくて、現象を見るとぶれているように見えるが本質を見ると納得できる」

という言葉に、これは中村先生が「命を救う」という本質の面ではブレがないけれど、その為の手法については色々と試行錯誤したり、迷ったりもするから矛盾した行動を取っているように見える時もある。

でも本質に照らし合わせて見ると、その点は揺らがないから納得できるということなのだろうけれど、これ見ていた人もそういう本質が見える人だからだよなあ、と思ったり。(中村先生ぐらい行動を動かしている本質が見え易い人でも、現れている事象だけを見て攻撃する人はいるなあと思ったり)

中村先生を語るワーカーさんの言葉からもう既に亡くなった知人から口癖のように聞かされた言葉を思い出したりもします。 

「ものごとは本質を見なさい。本質を見て考えると間違いが少ない」

「世の中の人は結果から見て考える人が多い。結果ではなくまず原因を見なさい。原因を見て考えると結果という答えが出ている。それからまた考えなさい」

「世の中の人が分からない、分からないというのは中途半端なところで考えるのを止めるからです。中途半端なところで止めるのではなくとことん考えなさい」

「とことん考えて、一生懸命向き合ったことで失敗するのであれば失敗したことで得るものがあります」

 こういう実体験で得てきたものから語る言葉を持つ人は言葉に力があるんですよね。話の上手い下手以前に言葉に力がある。

本質とは何か?を見つめることは、自分の本質とは何か?を見つめることに通じることでもありまして。自分の本質と向き合うことはこれでなかなか厄介ですね。

自分の中の矛盾や対立する思いと向き合って、それでもまだ残ったものに他者との摩擦を恐れず誠実でいなければならないのですから。

「思いと言葉と行動。これがずれていることは仏教的に言えば、これは論理的ではありません」

 これは以前お坊さんに聞いた言葉なのですが、本質と向きあうことで人は論理的になれるのでしょうか?新たな年に私はどこまで論理的になれるのでしょうか?

 本質に向きあわざるをえなかった年の終わりにそんなことを思ったりしています。