火曜日の思索メモ

思ったこと、考えたことの記録です。

食べること、生きること

百姓貴族といえば、百姓貴族が縁で一時期酪農をしていた方が、その思い出を綴った記事を見つけまして。

書かれたのが、百姓貴族の最新刊が出た頃だから、ちょうど去年コロナが広がり始めた頃ですね。

これが、なにか凄く良くて。生きるということは他者の命を奪うことだということに自覚のある人は強いなと思ってしまいました。

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酪農時代を振り返ったのは、百姓貴族を読んだからですが、もう一つ、『最近暗いニュースや疲れている人が多いな』と思ったので、命と向き合って仕事をしていた、酪農時代を思い出したかったというのもあります。

今世間は、
コロナウイルス
増税GDP下がる
・日本は後進国になって世界から見ても遅れている
それ以外にも、東京って、
・満員電車
・疲れている人多そう
・他人に無関心
みたいな、人も物も経済も、全体的に暗くなっている気がします。
一度電車でベビーカーを蹴っている人を見たのですが、『思いやりなさすぎだろ。ありえない』と思いました。

僕らって生きる自由が保障されていて、生き方を自分で選択できるのに、何でこんな息苦しく生活しているのだろう?と思います。
酪農は、『命を育む仕事』であると同時に、『命を頂く仕事』『命を奪う仕事』でもあります。
人間が生きていくために、死んでいく命や、生まれた日が悪くて凍傷で死んでしまった仔牛というのも、日常の中で見てきました。

そんなこんなで、個人的に今暗く重い気持ちになっているので、『生きているって素晴らしい!』と肌で感じていた酪農の仕事を、この機会に一度思い起こしてみたかったのです。

 私達食事をしないと生きられませんからね。生きる以上、他者の命を喰らわないと生きられないのです。

これはベジタリアンであっても同じで、植物だって生きてますから食べられたくはないわけですよ。

無農薬で作られた野菜は病虫害にやられないように農薬より毒性の高い成分を作って身を守りますし(詳しいことを知りたい人はエームス・ショックでお調べください)

植物だって自分が捕食されないように色々と知恵を絞るわけです。(だから、めちゃくちゃ厳格なベジタリアンには、「自分から食べて欲しいと思っているもの」だけを食べると動物の乳と果物しか食べない人達がおりますね)

 

以前習いごとの懇親会の時にお坊さんが(お坊さんだから当然菜食主義者なのだけれど)

「私達は生きている限り、他者を喰べずにはいられません。他のものの命を奪わずにはいられません。食事というのは他のものの命をいただくということですから、私達は食事の旅に三度三度業を重ねているんですね。

だから食事のたびに『いただきます』と感謝するのはとてもいいことなんですね。自分が生きる為にいただいた命に感謝する。

そういう形で私達は生きる為の業を減らしていくわけで、食べ物を粗末にするというのは、命を粗末にするということですから、業のうえに業を重ねることになるんですね」

というようなことをおっしゃいましてね。

そういえば「銀の匙」でも自分達が実習で育てた豚を食べることについて色々悩んでいた主人公がベーコンをくれた先輩と

「でも、美味いんですよね。困ったことに」「そうなんだ、美味いんだよな。もう一枚食うか?」

という会話をしていましたね。

島村奈津さんもスローフードについて書かれた本で実の親から障害が残るほど酷い虐待を受けた女の子が里親との農園暮らしの中で、食べるものを育てる、生きる為に家畜をつぶし、つぶした家畜を加工してハムやソーセージにして有難くいただく、の育てる、殺す、食べるその生の営みの繰り返しの中で虐待で受けた心身の傷を癒し、健やかな愛される子供としての姿を取り戻していたことを記していましたね。