火曜日の思索メモ

思ったこと、考えたことの記録です。

声なき悲鳴が聞ける為政者のいる国、いない国

「ピアノで巡る世界聖地巡礼の旅」という舞台を観た後に、オンラインで「児童養護施設長殺害事件ー児童福祉制度の狭間に落ちた『子ども』たちの悲鳴」読書会に参加するという結構濃い一日を過ごしまして。

 

 これ順番が逆だったら、夜気持ちよく眠れたのじゃないかと思ったけれど、先に綺麗なものを見て、綺麗なものと綺麗な音でパワーを充電していたから、救いのない重い話についての読書会でも色々な意見をわりに冷静に聞けたのかなと思ったりして。

 

 それにしても「ピアノで巡る世界聖地巡礼の旅」日本の章だと仁徳天皇の有名なエピソードが出てくるんですよねえ。

 仁徳天皇が夕方宮殿から家々を眺めると、どの家からも煙が上がっていない。

「夕方なのに民は夕食の支度が出来ないくらい貧しいのか」

 と考えた仁徳天皇は、三年間民が税を納めるのを止めさせた。三年後、家々からは煙が立ち上るのを見た仁徳天皇

「まだ貧しい民がいる筈」

 と、更に三年間税の徴収を止めたので、宮殿は修理も出来ずボロボロ。それでも天皇

「民は宝だ。民が豊かになることで私は満足だ」

 と宮中が貧しくなったことを責める妃にそう答えたというあの話です。この話、ボロボロになった宮殿は

「税も労役も免除になったので、我々は豊かになり道端の落し物をさらっていく者もいなくなりました。税が納られないので宮殿は朽ち、国庫は空になってしまいました。

家にも蓄えが出来るほど、我々は豊かになりました。どうぞ税をお納めください」

 と、民の方からの申し出で徴税が再開された後、命令されてもいないのに各地から集まった民が宮殿修理を始めたので、あっという間に宮殿は立派な姿を取り戻した、と落ちがついていますね。

 為政者として

「民の窮状をなんとかせな、あかん」

 と思った人の姿を舞台で観た後、この国の子どもを取り巻く環境の貧しさを思い知らされるとなんだかな、という気分になりますね。

 

 仁徳天皇のエピソードって、上に立つ者がどれだけちゃんとした目を持っているのか。明きめくらになっていないかを戒めるエピソードでもありますね。

 夕方、家から煙が立っていない。→何故?と考えることが出来た。凡庸な為政者なら、家の中で悲鳴すらあげることが出来ずうずくまる人々が潜んでいることも気づかず

「静かないい夕方だなあ」

 と言ってしまいそうですものね。今はそれが高見から見下ろす人の目にもハッキリと見えるようになった、ということなのでしょうけど、こういうのって安全な高い場所にいる人達が気づくのは、大抵すでにかなりヤバイことになってからなんですよね。

 二階にいる人達が気づいた時には、既に一階は火事ボウボウというのは防災映像ではよくある光景だし。

 それを考えると2000年代からの自己責任論ブームは罪作りですよねえ。あれ発信している人達が自覚しているかどうかは分からないけど

「『助けて』と言うな!」「困っているなら自分で何とかしろ!」

 とサインを出しているんですよね。

 援助希求能力が乏しいというのは精神病理に分類されるけど、そういう人が増える方向へ増える方向へと流れを作ってる。

 自己責任論ブームって新自由主義からの流れだろうけど、あれ文脈的にはプロテスタントの考えですよね。

 同じキリスト教系でもカトリックは、ちょっと違うんですよね。フランスが「甘やかし過ぎ!」と言われるくらい高福祉国家なのは、やっぱり経済政策が文化に影響されているんでしょうね。

 今はイスラム教徒も多いけど、あそこは元々カトリックの国だし、イスラム教徒だった一夫多妻制が未亡人救済策から生まれたことで分かるように「弱いものを守ってやらないのは恥」という考え方がありますしねえ。

 日本て、元々攻撃が内に入る傾向があって。昔、民話関係の本を読んでいたら

「欧米の残酷は外にいく。日本の残酷は内にいく。恋をした美しい侍女が自分の意のままにならなかった。外国ならレイプして終わりだろう。

日本の場合は、この民話のように

『自分のせいではない。その者が自分で選んだことだ』

と言える形で残酷さを見せる。

自分になびかない侍女に池の真ん中に浮かんだ花を採りに行くように命じる。何度も何度も泳いで採りに行かせる。やがて侍女が力尽きて溺れるまで。そしてうそぶく。

『嫌ならやめることも出来たのに』

 侍女が溺れたのは採りにいくことをやめなかった侍女のせい。命令に逆らわなかった侍女のせい。採りにいけと命じた長者のせいではない」

 というようなことが書いてありまして。元々文化的に内にこもる傾向、人を攻撃するより自分を攻撃する傾向がある国で、更に自分を責める方向に誘導する流れがあったら、そりゃ問題の発覚が遅れますよねえ。

 そう簡単に解決出来ないほど、問題がヤバく大きくなってから「これは放置できない問題だ」という認識が出来上がるのはなかなかきつい。

 会社なら「自分でどうにか出来ない奴は切れ!」ということもあるのでしょうが、社会はそれ出来ませんしねえ。

 70年前のドイツでそれをやってえらいことになりましたからねえ。ユダヤ人より前に「生産性がない」と国のえらい人達に判断された方々が社会から切られましたしねえ。

 だから、こういう厄介な問題は、大きくややこしくなり過ぎないうちに対処しておくことが大事なのだろうけど、面倒なこと全部現場に任せて頬かむりしているうちに見たくない人でも見えるくらい大きくなってしまいましたね。

ほんと、問題がややこしくなる前に気づいて対処することが出来た仁徳天皇は優れた為政者でしたね。