「紋別での巨大ヒグマ補殺について書いた熊森協会のブログは大変興味深いので、皆さんぜひ読んでよ!という気持ちでいっぱいです」
という言葉を見かけたので、リンクが貼ってあった記事の魚拓を開いてみたのだけれど
「テントコーン畑で射殺された400キロヒグマを殺しても問題は解決しない」
という言葉を見て、あれこの事件似たような話を知っているぞ。
荒川弘さんが「百姓貴族」の中で同じような状況の話を描いてなかったか?と思って読んだらやっぱり同じ事件でした。
この事件、ヤバいと思ったのか熊森協会が削除してしまった記事と(でも、今はこれは都合が悪くなったらなかったことにするだろう、と思われた記事は読んだ人がサッサと魚拓を取るので削除しても読めたりするんですけどね)と荒川さんの「百姓貴族」を読み比べると事実は同じでも異なる立場から見ると全く違う見方ができるといういい例になっているので、情報リテラシーを鍛えるいい教材になりそうですね。
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自分には害が及ばない安全な場所から、熊の生態について地道な調査よりもイデオロギーを重視する団体と獣害に悩まされながら野生動物との共存を余儀なくされているお百姓さん達では見えている光景が全く違うんだろうな、と思いました。
「人は、自分の利害に関係ないところなら簡単に正義を言える」
と、いうシニカルな詩があるのですが、自分の正義の為ならば、被害を被る人がいても仕方がないという姿勢を崩さないのなら共感を得るのは難しいでしょうね。
くまもりNews「報道姿勢としては、ヒグマの死を悼む気持ち、人間側の反省に溢れる報道がなされるべきです」と書いていたけれど、先に「百姓貴族」を読んでいると、そりゃあ、ようやく熊に襲われる恐怖から解放された後なら、恐怖を笑いに変えてデントコーン畑に住みついてしまった熊のちゃっかりぶりを笑いたくなるよなと思いました。
荒川さん、コミカルに描いているけど熊に畑に住み着かれてしまった人達の恐怖と困惑はしっかり描いてますしね。
先年亡くなった矢口高雄さんも「羆風」だけでなく、熊が出た時の人々の大騒ぎと恐怖を度々描いてますし、熊や野生動物が身近な地域で育った人はイデオロギーや主義に流されませんね。
野生動物への愛はあるけど、それはそれ、これはこれで生活者としての実感は失っていない。(「百姓貴族」害獣には容赦ない親父様が、草刈り中うっかり怪我をさせてしまった狸を慌てて病院に運んで「狸は悪さしたことがないんだよ。可哀想なことをしたなあ」と言っているあたりがわりと好き。理由があるから駆除するのだから、理由がない動物には優しくするよね)
あの手の動物愛護団体は獣害や野生動物の生態にしっかり向き合わないから、どうも好きじゃないんですよね。
自分達の主張を崩さないから何度も
「それは野生動物にとっても人間にとっても危険」
「植生ぐちゃぐちゃにする自然破壊じゃないか」
「やるなら最後まで責任取ってやれ。自分達がしたことの結果を人に押しつけるな」
と批判されても同じことを繰り返すし。
宗教になってしまうと自分達に都合の悪い事実は目に入らなくなってしまうのでしょうね。