ヴァレンティンの炎上、何故あれが起こったかについて考えている。
「SNSで物議を醸していた」と評されていたけれど、あの写真と動画を見て、こういう反応が出ること自体は不思議ではないのね。
ただの綺麗な布ではありません。 沢山の人達の手を経て帯は出来るのです。 糸を作る人 染める人 図案を考えて起こす人 整経する人 織る人 その布を整えて縫う人 他にも沢山の人の時間と技が一枚の帯には有ります。 大切にして欲しい。
生地や素材の作り手へリスペクトを示すどころか、ディスリスペクトするような広告を作った感覚が理解できない。ただちに撤回、謝罪を求めます。
なんだろう、普段着物着る機会なんかないけど帯とか着物を地べたに敷いて踏んだり座ったりとか凄く抵抗あるわ
どの国の人でも自国の民族衣装を他国の有名ブランドが大々的に踏み潰してたら憤慨しますよ。 全然大袈裟じゃないし、これが問題にならなかったら日本ヤバい。
イギリスでチェック柄の布を踏みつける表現してみろ 柄ごとにどこぞの家の家紋扱いとか有るからくっそ炎上するぞ
海外ブランドならそこらへんの知識はあると思うんだが、イタリア発祥で60年程度しか歴史ないと配慮も至らんのかもね。
問題とされる動画(炎上後、公式サイトや各種SNSより削除済み) pic.twitter.com/nFS6KOoWfr
— 滝沢ガレソ🌈🌱 (@takigare3) 2021年3月29日
まあ、着物好きでない人でも「なんとなく嫌だ」と思う人がいても当然だし、ヴァレンティノというブランドに対しても、こういう反応が出ること自体も不思議ではない。
絨毯でもない布を、しかも民族衣装の布を、こういう風に扱うセンスはファッションブランドとして「無い」わぁ…w
キレイな布なのにもったいないなあ これでエコについての意識も高いとか言われだしたら鼻で笑う
民族衣装は最上位の礼服だってファッション業界の人間でも知らないんだろうか アイデンティティ絡む物、雑に扱ったらそりゃ炎上するって
どんな広告も何が炎上するかわからないってこのご時世いろいろ痛い目みただろうに…民族衣装とか他国の文化に関係するものなんてめっちゃデリケートなもんだろうに…日本人のモデルに帯踏んづけさせて何を表現したかったんじゃヴァレンティノ…
職人の手仕事を足蹴にする企業がまともなものを作れるとは思えませんねえ。
民族衣装の国を変えてみてどういう反応があるのかって考えたらヤバさがわかると思うが。
それこそBLMだなんだで大盛りあがりな昨今の状況からして、アフリカの民族衣装でやったら、たとえ踏んでるのが同じ国のモデルだとしてもぶっ叩かれるところですまない大炎上になると思うがね。
だから、慌ててヴァレンティがキャンペーンを中止して、動画を削除することについても不思議はないのだけれど、あれを「映画『草迷宮』をインスピレーション源に撮影」と言われると、おいおい、という気分になるのね。
あれのいったいどこが「草迷宮」なんだって感じですね。「草迷宮」って寺山修司の美意識と才能あっての映画だから、寺山修司の意図を理解していないと、海上に出ている部分だけを見て氷山の大きさを理解していると思っているような理解になってしまうんでしょうね。
オマージュやパロディって、制作側に元作品への愛と敬意がどれだけあるかモロにでてしまうから難しいんですよね。
愛と敬意がなくても、理解があればまだいいのだけれど、これ元作品もあまり理解していないよね。
あれねえ、「帯の上を走って逃げる」というのは帯が象徴してるものがあるのよ。
だから「帯の上を走って逃げる」が説得力があるんでねえ。
あれは、どちらかというと「帯に導かれて逃げる」なんですよ。意味が分かっていないで、形だけを似せているから帯が象徴するものへの敬意ではなく侮辱になっているの。
https://youtu.be/91VN172ejOE?t=505
カメラマンが外国人だから、寺山修司の意図を読み取れなかったかもしれないけれど、スタッフには日本人がいましたよねえ。
「草迷宮」を観ていなかった人がほとんどなのかな?資料として差し出された写真だけを見て判断したのかな?
寺山修司はすごくアンビバレントな愛情表現をする人で別の作品についても、川本三郎が「夢の日だまり」の中でこう評しているんですよね。
不安と恍惚。母から逃れたいという夢と、母に探し出して欲しいという夢。
寺山修司はその一瞬のアンビバレントを知っている詩人である。”母”のやさしさと”母親”のうっとうしさを知っている日本の男である。
寺山修司の映画の中でも『田園に死す』が最高傑作たりえているのは、この”母”のやさしさと”母親”のうっとうしさがもっとも美しく、懐かしく描かれているからに他ならない。
故郷を捨てて東京に出て行った「私」は、最後、再び、故郷の母とともに黙々と向かいあって食事をする。
「私」は、母の重荷から逃れて、東京という自由な都市へ出て行った。しかし、精神的には「私」は母を捨てることは出来ない。
”誰か母を想はざる”。「私」は、もう一度、母と食事をすることによって、母からの逃亡と母への帰還という矛盾を一挙に乗り越える
このとき、私たちは思う。寺山修司は、本当は、母親から逃げたかったのではない。本当は、鬼=母親に見つけて欲しかったのだ、と。
同じ人に対する愛と嫌悪を同時に表現できる作家よ、寺山修司って。
愛だけではない。嫌悪だけではない関係を表現できて、しかもその表現を生み出す為に七転八倒した作家よ。
「マッチ擦るつかのま海に霧ふかし身捨つるほどの祖国はありや」という和歌を作る人のセンスがあっての草迷宮だし、ヴァレンティノのキャンペーンにはそれがない。
2015年の寺山修司生誕80年記念オフィシャルイベントには、宇野亞喜良、元ちとせ、SUGIZOあたりも参加していたから、寺山修司が亡くなった後に生まれた人でも知っている人は知っているし、好きな人はもの凄く好きなんですよね。
ビジュアルだけを真似して使いたいなら、「毛皮のマリー」ではなく「黒蜥蜴」にすればよかったのに。
どちらも美輪明宏さんが演じているし、どちらも傑作だけど、美輪さん以外も何人も主役を演じている黒蜥蜴と違って、毛皮のマリーは美輪さん以外で演じた方は思い浮かばないんですよねえ。
黒蜥蜴の美しさや哀れさは理解されやすいけれど、毛皮のマリーはそれに醜さや嫌悪感も混ぜるから、人によってはとっときにくい作品なんですよね。
スイカに塩をかけることにより甘くなるように、醜さや人が嫌悪感を抱くものも混ぜることによって、そのものの美しさや素晴らしさをより引き立てるという手法を取るのが寺山修司なんですよねえ。
だから見かけだけ、寺山をなぞったりしたら、大炎上しても何の不思議もないの。寺山修司の精神性を理解しないと。
いや、ほんと何でこんな難しい人を参考にしたんだろ。ダイバーシティの表現に寺山修司をヒントにするって、よほど自分の表現に自信のある上級者しか出来ないわ。
しかも広告なんですよね。限られた人が自腹を払って観に行く舞台演劇とは違うんですよね。
ダイバーシティという言葉の底の浅さを表現するだけに終わりましたね。本当に寺山をヒントにダイバーシティを表現出来たら、傑作になっただろうけど、ビジュアルに惹かれて意味を理解しないまま形だけ真似るスタッフでは無理でしょうね。
こういうのってヴァレンティノのキャンペーンに限らず、ダイバーシティ関連ではよくありそうですね。
よく出来ているものの良さを、何故いいのかちゃんと理解しないまま、形だけ真似て失敗するやつ。
そういう意味ではよい他山の石になりましたね。