「政治家には一人で食事をとるという発想がない」ということから連想して、「孤独のグルメ」が海外でも好評で、好評なあまり台湾で現地の人気俳優を使って現地バージョンを作ったのだけれど、出来上がったものは人気俳優のグルメレポートのような作品になってしまったので、現地の人気は今一つだったと聞いたことがあるなあ、と思い出しまして。記事を描いた記者が
「あれは私達が『孤独を楽しむ』という私達にない文化に魅せられたのに、製作側がそのことを理解していなかったからだ」
と書いていましたね。
まあ、台湾というかアジア文化圏は「食事はみんなで楽しむもの。一人でご飯を食べるなんて可哀想。誰かが一緒に食べてあげないと」という文化が色濃いのかもしれませんね。だからどうしてもその影響が作品に出てしまったのかも。
孤独のグルメ、台湾だけでなく、韓国でも中国でも人気で
「いいなあ、あれ。自分もあれをやってみたい。日本に行って吾郎ちゃんと同じことをしてみたい」
という観光客いるという話も聞きましたね。一人飯を嫌がる文化があるところでこういう反応が出るところが「孤独のグルメ」の凄いところですよねえ。文化が人を呼ぶというのはこういうことですよね。今まで自分達になかったものがあることを知って
「なんて素敵!それやってみたい!そういうのっていい!」
と思わせるのが文化の力ですよね。Go to eatを始め、コロナ禍対策で、「ズレてるなあ、これって」と思うのが出てくるのって文化を軽視したツケが出てきているのじゃないですかねえ。
だって、おじさん達の文化とバカにされる立ち飲み一杯文化も文化ですものね。接待や仕事上必要な会食しかしていない人だとああいう生活文化は軽視するかもしれないけれど、飲み屋文化って、あれ立派にサードプレイスですよね。
職場でも家庭でもない第三の場所。
ああいう個人になれる場所を持っていた方が人生豊かですよねえ。会社ではどんな肩書きを持っていようと、その店ではただの客だからマナーが良ければ尊重されるし、そうでないなら敬遠される。
あの店でしか会ったことがないから、どんな人かはよく知らないけれど、会えば挨拶して楽しく会話する知り合い、なんていうものを持っていな人もいたでしょうしね。
コロナ禍で馴染みの店が消えてしまわないよう、なんとか手を尽くしたいと思っている人も店だけでなく、ああいう時間が消えてしまうことを惜しいと思っているのではないのじゃないかなあ。
このところ忙しくて行けてないけれど、余裕ができたらまたあの時間を味わえる、というのと、店が無くなってしまいもう二度とあの時間を味わえないというのは違いますものねえ。
文化というのは壮大な無駄だから、効率と経済的価値だけで世の中を眺めてきた人にはそのことが分からないのかなあ。
こういう世の中が不安で落ちるかない時は、何の役にも立たないと思われていた時間が人の心を守るのにね。