「中村哲の声が聞こえる」というアフガニスタンで中村先生と一緒に働いたワーカー(日本人ボランティア)のその後を描いたドキュメンタリーを見まして。
冒頭はU2の日本公演でボノが「Bad」を演奏前に
「一瞬でいい、皆の思いを寄せよう。僕らはこうしてここにいる、生きている、集まっている…屋内に輝くこの星空、このスポーツスタジアムを大聖堂に変えよう。それぞれのスマートフォンをキャンドルがわりに。
偉大な寛大なる国が生んだ、偉大なる1人の人間、偉大なる中村哲医師を偲んで…」
と、追悼を呼びかけるところから始まりまして。あの報道を聞いた時にU2だったら、そういうことをしても不思議はないけど中村先生日本よりも海外で有名だったのかな?と思いました。
ボノだったら緑化成功で話題になる前から中村先生のことを知っていてもおかしくはないですしね。
このドキュメンタリーそういう緑化成功以前から中村先生と一緒に働いていたワーカーさん達の現在と彼らが中村先生から得たものを描いていまして。
これ、アフガニスタンにもボランティアにも国際支援にも興味がない人でも、人材育成に関わる人は見た方がいいと思いました。人が人を育てる。人が成長するというのは、どういうことかを見事に描かれていました。
中村先生の棺を担いだ元ワーカーさんが
「悲しんでも先生は喜ばない」
と語っているところがなにかよくて。先生だったらどう考えるだろう?先生だったらどう行動するだろう?というのが判断基準のどこかに入っている感じが凄くよくて。
アフガニスタンでの日々、中村先生とワーカーさん達はそんな風に思えるだけの濃い時間を共有してきたんだなという感じがしました。
ワーカーさん達が志を持ってアフガニスタンに渡った人ばかりではない、というところもなんとなくよくて。
仏教の勉強をしたくて渡った人、ブラック企業で営業をやっていることに疲れて気分転換で1ヶ月ぐらい滞在するつもりで渡った人。いつかは国際機関で働いてみたくて、ここでボランティアをすれば就職の時に売りになる程度の気持ちで渡った人。
中村先生は、志望動機よりも今いかに誠実に働いているかで人を見る人だったので、様々な理由でアフガニスタンに渡ったワーカーさん達が現地の現実に触れて変わっていく様を見るのは楽しかったでしょうね。(「丸腰のボランティア」という日本人ワーカーに多く筆をさいた本もあることですし)
頭で描いていたアフガニスタンと現地の現実との差に打ちのめされてワーカーさんが中村先生に向かって
「こんな小さな診療所で何ができるんですか?」
と怒りをぶつけるのがいいし、その問いに対して中村先生が
「わしゃバカじゃけんね」
と応えるのもいい。その問いでワーカーさんが、ああ、それでいいんだ、と納得するところもいい。
「人は好きなようにやっていいんだよ。完璧じゃないんだけどやっていいんだよ。」
そう言われたような気がして救われたとワーカーさんが語っていましたが、逆に言うと日本では誰もこの方に「人は好きなようにやっていいんだよ。完璧じゃないんだけどやっていいんだよ。」ということを示させなかったということになりますね。
そして中村先生とワーカーさん達の関わり方を見ていると、これ人が育つわ。一番大切で大変な「金を集める」を中村先生がやって「問題を解決する」経験を若いワーカーさん達に積ませている。
アフガニスタンで旱魃が起こり、清潔な水が手に入らないことで感染症でどんどん人が亡くなる状態が続いて、人を生かす為には治療するより先に清潔な水を手に入れることが必要だち井戸を掘ることを決断した時、中村先生がワーカーさん達に言ったことがこれです。
「とにかく水を出せ。綺麗な水を出せ 手段を選ぶな」
「銀行強盗以外はなんでもやって金を集めてくる。なんでもいいから始めさせろ」
これ言われた方は必死になって方法を考えるわ。しかも一年で600本の井戸を掘るというワーカーさん達からすれば無茶苦茶な(感染症患者の増加を防ぎたい中村先生にとっては当然な)達成目標が掲げられたわけだし。
井戸を掘ると言うのは単に技術的な問題ばかりではなく、色々と面倒なことが絡んでくるわけですよ。日本でも水利権問題は下手を打ったら血を見ると言われるくらい難しい問題であって。しかも場所は旱魃期のアフガニスタン。
みんな自分のところに水が欲しいわけです。全部の要望を聞いていたら、とてもじゃないけど対処しきれないから心を鬼にして選択をしないといけない。
そういう状況の中で、二十代の若者が現地の長老会を相手に交渉をして井戸を掘っていいと承諾をもらうわけですよ。中村先生のことを「鬼教官、鬼将軍」と評したワーカーさんがいたけれど
「長老を説得し、井戸を掘っていいと許可を得るまで帰ってくるな。笑顔で帰ってこい。ただヘラヘラするな。長老と笑顔で話しあえるようになってこい」
こういう指令を受けたワーカーさんからすれば鬼以外の何者でもないでしょうねえ。中村先生と初めて会った時の印象を
「怖かった。先生は小柄なのだけど目が凄い。先生を見て話すのは気力がいる。嘘が通じる人ではない。」
と語ったワーカーさんもいましたが、嘘が通じる人ではないけれどその言葉は嘘だと言ってくれと思ったとしても無理はないでしょうね。それでも鬼教官の達成目標をクリアし、ようやく清潔な水が手に入るようになった頃、9.11が起こりました。
外務省の指示でアフガニスタン人スタッフを残しパキスタンに撤退した日本人スタッフが見たものは、アフガニスタン空爆を映すTV画面でした。
阪神淡路震災や東日本震災で故郷が災や波で呑まれていく様をを映すTV画面を見ていた人は、この時の日本人ワーカー達の気持ちがとてもよく理解できると思うのですよね。
画面の向こうで今、自分達がよく知っている街が破壊されていく。今、破壊されてゆく街のどこかに自分達のよく知っている人達がいる。なのに自分達は安全なところで何もできない。
そういうところに中村先生が日本から帰ってくるわけです。ワーカーさん達の話を聞くまで知らなかったけれど、アフガニスタン空爆時に中村先生は日本にいたんですね。
ひょっとして参考人として国会に呼ばれた時だったのかな?アメリカがアフガニスタン空爆を決めた時、現地の事情をよく知る人間として、中村先生は国会に召集されたのですね。
そこで政府が求める言葉ではなく、現地の事情を知る人間としての正直な言葉を告げたことで中村先生は国会でかなり叩かれまして。(今年の国会で尾身先生がヤジられた時、医療関係者がキレまくっていたけどあれを想像するとわかり易い)緑化が成功してからの中村先生の持ち上げられ方をどこか冷ややかに見てしまうのは、このせいで、いやあの時相当ひどいパッシングあったよな、と。
皇室は現地の正確な情報と正確な知識を求めるけど、政治家は自分達にとって都合の良い情報と都合のいい知識を求めるのだな、とつい思ってしまうのです。(皇室が、その人の思想に関係なく専門知識のある人を皇居に招いてレクチャーを受けるのは有名な話で中村先生も何度か招かれたそうで、ご葬儀の時は皇室からも弔辞が出ていましたね)
で、日本から戻ってきた中村先生が言ったことは
「食糧ば配ろう」
これでパキスタンで何もできないままイライラしていたワーカーさん達の方針が決まったわけです。
「アメリカが爆弾を降らせるなら俺らが食糧ば降らせる。なによりもこれをやるから全力で走りなさい。」
なにかこの言葉イザナギ、イザナミの黄泉別れを連想されるのですね。
「我が愛しい夫よ。貴方がこのようなことをするのなら貴方の国の人を1日1000人殺しましょう」
「我が愛しい妻よ。貴方がそうするのなら私は1日に1500人産ませてみせよう」
アメリカが何もしなくても旱魃で死にかかっているアフガニスタン人を殺すなら、自分達が食糧を配ることで生かしてみせよう。
それからワーカーさん達は必死でした。無我夢中で走り回って寝る間も惜しんで走り回って。製粉業者と油業者と運送業者に探して、価格交渉をして配送手配をして。
「やりたい、何もできないという苦しさの中で全力でこれに取り組んでいいよと与えられた時、寝食を忘れて働けてしまう」
そう語ったワーカーさんもおりました。ワーカー時代の思い出を聞かれて思い出を噛み締めるかのように言葉を探しながら答えたワーカーさんもおりました。
「仕事でした。成長させていただいた。色んなものを与えていただいた。人生を根底で支えるような、そういうものを与えていただいた。」
これはもう目に見えない財産でしょうね。
失敗を繰り返しながら、諦めずに挑戦をし続けた。挑戦する機会を与えられ続けた。中村先生は失敗しても怒らなかった。
「君達は悪いことになら何でもしてもいい」
「失敗を恐れるな。とにかく思うままやってみろ」
これを言ってもらえた人が今の日本にどれだけいるかということを考えるとワーカーさん達があの日々のことを「色んなものを与えていただいた」そう振り返るのは無理がないと思うのです。
ワーカーさん達に「まずやってみろ。習うより慣れろ」という方針で接し、失敗しても咎めなかったことを中村先生はこう記してます。
「最近の日本は若気の至りを許さない気風で若者が萎縮しているように見えるからです。」
日本に帰国する時に中村先生が書いた別れの言葉を見せてくれたワーカーさんもおりました。
「柳緑花紅」
「柳緑花紅。書いてもらった時は何のことか分からなかったけど、柳は緑、花は紅。そういうことだと知って、あるがままに、自然体のままに、あるがままにそういうことでいいんだな」
一隅を照らす。自分ができること、自分がやりたいことに集中しなさい。それぞれが自分の置かれた場所でできることをする。
自分の身の回りのこと、出会った人の中でできることをする。
それぞれのワーカーさんがそれぞれの場所で中村先生に教えられたことを抱えて生きている。
帰国してから東日本震災に会い、今農業雑誌で農家を助ける仕事をしているワーカーさんはこう語っておりました。
「震災で苦しんだ人と水不足のアフガニスタンで苦しんだ人が重なった。逆境になればなるほど、農家はアイデアを出して立ち向かう。
小さいものや弱いものに対して冷たい社会に抗っていきたい。
人がいないからいいだろうと切り捨てていくのはおかしな話だと思います。」