火曜日の思索メモ

思ったこと、考えたことの記録です。

ルサンチマンに囚われていると何も生まない。

 上野千鶴子さんの記事が流れてきまして。上野千鶴子さんには、まったく興味がないので上野さんが何をしようと、「ああ、そうですか」という感じなのですが、今ちょうど日本の少子化と日本人を縛る社会規範についての本を読んでいたところだったので、まあタイムリーと思いました。 

 結局、日本のフェミニズムが社会運動として定着せず、むしろ「クレーマーの集団」という印象すら与えるようなったのって、自分のルサンチマンをはらすことに終始して、「男性の社会規範からの解放」について無関心に近いくらい関心が低かったせいじゃないですかねえ。
(寡聞ながら、メディアが持ち上げたがる日本人フェミニストで、それについて論じている人が思い浮かばないのですね。
いわゆる「知識人」と呼ばれない階層のフェミニストなら、男性についても「社会規範からの解放」について記しているのが思い浮かぶのですが。
さすがに昨今は弱者男性について言及するようになったけど、それまでの言動を覚えていると、上手いこと言い繕うとしてるなあ、というのが、先にきてしまいますね)

 20世紀末には、エンタメが
「伝承者でなくとも...男でなくとも...私は...私...。私は日輪。関守日輪だ」
 と少年誌で少女に高らかに宣言させ、少女誌で
「あの時、私は騒ぎを止める為に人を呼びに行き、おまえは腕ずくで喧嘩を仲裁した。
今、私が、食べているのは、甘いデザートワインとトマトサラダ。
おまえが、食べているのは、豚足と強いラム酒。こんなのおかしいんだ!
……でも、本当は息子やおまえみたいな生き方が羨ましい…」
 と、国の重職につくおじさんが、仕事のことでガチバトルした女性にむかって告白する。

「女らしくない女性も、女らしい女性も、男らしくない男性も、男らしい男性も、全てOKとして認めるのが多様性。
 どれを選ぶのかは、その人の個性。社会規範が自分の個性を押し潰そうとするなら、そんなものに従うのは無意味。
 自分が自分らしく生きられない社会規範なんて変えてしまえ。
 そんなものに縛られる必要はない。」
 と、いうのをエンタメが延々やっている時代に、自分のルサンチマンに囚われた二項対立思考から抜け出せないようでは、支持層は増えないと思うのですけどね。