火曜日の思索メモ

思ったこと、考えたことの記録です。

多様性と全体主義

とあるところで多様性の厄介さや、多様性の持っている闇とそれを見ないでいることの怖さなんてことを聞く機会がありまして。

多様性を認めないで一つの方向を向いていた方が楽だけれど、では何故それでも多様性を求めるのか。多様性の持つ面倒さとその面倒さから逃れる為に全体主義を求める心、なんてことを考えていたりしたのだけれど、そういう時に旭川の事件について特集した番組への感想が流れてきまして。

多様性というのは面倒だし、厄介だし色々闇も含んだものだけど、だからといって多数派の利益を優先する為に少数派の不利益を無視していいのではないことは、この件での学校側の発言で証明されてしまいましたね。

www.nhk.jp

過去、いじめ事件で関係者のトンでも発言が出てくることはあったけれど、さすがにこの言葉には唖然とする人が多かったですよね。

この件、学校側の言い分について、こうツイートされた方がおりまして

この方が生出演されて大変な反響があったという番組の記事はこちらですね。

times.abema.tv

これ出演するのに勇気がいっただろうなということと、それでも出演することを決めるほど長年苦しかったんだろうなあ、と思うと息が苦しくなりますね。

旭川の中学校や教育委員会が少女へのいじめが「ある」のに「ない」としたがったように男性の性被害も長年「ある」のに「ない」とされてきたことの一つで。

これは日本だけでなく世界でも同様の傾向で。

カソリックの聖職者達の少年への性的虐待が長年発覚しなかった理由の一つでもあるわけで。

gendai.ismedia.jp

そうした声をあげられない人達の声なき悲鳴を否定するのが教育という職業についている人達だと思うと溜息をつくしかないのだけれど。

そのうえ、これ氷山の一角じゃないかという疑問が出ているんですよね。

これ個人の感想だから、「過去に聞いた噂も本当だった」かは、分からないけれど、この方がこう思ってしまった原因が学校側の言葉だと思うと、長年同じ対応をし続けてきて、今回はそれが地域社会のルールや常識が通用しない外の世界に流れただけじゃないかという気がするんですよね。

狭い社会の他の社会では非常識であるというのは、ままあることで。

今回は、それが倫理観とか教育者としての職業責任とか世の中の人が大事だと思うことに対しての非常識だから、この件を見る人の目が厳しくなるのは仕方ないでしょうね。

しかしまあ、旭川ほどの規模を持つ地方都市でも地方社会の閉鎖性から逃れられなかったのか。

高知東生さんが以前、この件についてこういうツイートをされていて。

それは本当にその通りなので。この難しい課題がクリアされない限り、安全な場所を求めて死へ逃げる子供達の足を止めることは出来ない。

その事実を考えたうえで、どうしたら苦しむ子供達を救えるのか方法を模索するしかないのでしょうね。