火曜日の思索メモ

思ったこと、考えたことの記録です。

日本の残酷さは「自己責任」という言葉に出る

成田氏の発言、典型的な「日本の残酷さ」なんですよねえ。

以前書いたもだけど、松谷みよこさん達が編集した日本の民話集の解説で

「海外の残酷さは外に出る、日本の残酷さは内に出る」

 と残酷さの表れかたの違いについて触れられていて。

 例としてあげられていたのは、収録された民話の一つ。

お大尽が、自分の家の美しい召使いに恋をした。けれど、彼女は主人になびかない。

そこで、主人は召使いに池の真ん中で咲いている花を採りにいくように命じた。

何度も取りに行っても、主人は召使いに「もういい」とは言わなかった。

彼女は繰り返し繰り返し池の真ん中まで花を採りに行かねばならず、とうとう力尽きて溺れて死んでしまった、という話です。

解説者は、こう書いてました。

「外国だったら、恋した女が自分になびかなかったら、残酷さは彼女を強姦するという単純な形で出るだろう。

 日本の残酷さは、そういう単純な形は取らない。己の意思で女が自分の意のままにならないと我慢出来ない。

 残酷さは、採りに行くのに危険や困難が伴う池の中の花を繰り返し採りに行かせる、という形で表れる。

女が溺れても『嫌だったら辞めることも出来た筈だ』と嘯く」

 

 他に選択の余地がない状況に追い込んでおいて、「自分でそれを選択した」という形を取らせて、自分には責任がないように繕う残酷さ。

 成田氏の発言はそれ思い起こさせますねえ。

 

 そういえば旭川いじめ自殺事件で、いじめの首謀者側グループの子へのインタビュー記事が出ていたけど、あれも典型的な「日本の残酷さ」ですよねえ。

 強要されて自慰させられた被害者の写真を見てどう思ったのか?という問いに

「自分が選んだことだから、何も思わなかった」

 と首謀者グループの子が答えてました。読んだ時、思考停止してるなあ、と思ったけれど本当にそう思ったのでしょうね。

「自分が選んでやったことだから責任はやった人間にあり、自分が責められるいわれはない」

 日本の宿痾は、こういう些細な部分に表れますね。